LOGIN昼のイタリアンレストラン。
窓際のテーブルに運ばれてきたアツアツのパスタから、立ちのぼる香り。朱里は「美味しそう」と無意識に声を漏らした。 その声には、仕事中には見せない素直さがあった。 嵩はフォークを手にしながら、その表情に目を奪われる。 普段の朱里は、社内ではクールで隙がなく、後輩からも頼られる存在だ。仕事では冷静で、どんな依頼にも落ち着いて対応する。 けれど今、目の前にいるのは──ただの二十五歳の女性だった。 嬉しそうに料理を見つめる横顔が、どこか幼く見える。 「中谷さんって、意外とパスタ好きなんだな」 嵩は軽い冗談のつもりで口にした。 「え、意外って何よ。……好きに決まってるでしょ」 朱里は少し口を尖らせる。 その反応がおかしくて、嵩は思わず笑みをこぼした。 「いや、もっと和食派かと思ってた」 「どういうイメージな翌朝。 嵩はいつもより少し早く会社に着いた。 誰かと約束があるわけでも、急ぎの仕事があるわけでもない。 ただ、昨夜の続きを、頭の中で終わらせたくなかった。 デスクに座り、コーヒーを一口飲む。 苦味が、やけに現実的だった。 (朱里は、言わなかった) それが、どうしても引っかかっていた。 「好き」とも言わなかった。 「一緒にいてほしい」とも言わなかった。 引き止めもしなければ、突き放しもしなかった。 それなのに── あの夜は、逃げなかった。 嵩はPCを立ち上げ、業務メールを確認する。 その中に、見慣れた件名があった。 【人事異動に関する最終確認】 胸の奥が、ひくりと動く。 “ほぼ確定”だった転勤は、 もう“いつ・どう伝えるか”の段階に入っている。 昨夜までは、 「もう少し一人で抱えよう」 そう思っていた。 でも今は、違う。 朱里は、全部を預けなかった。 だからこそ、嵩も“全部を一人で決める”必要はない。 (選択を、共
朱里と別れたあと、嵩はしばらくその場を動けなかった。 時計を見ると、思っていたより時間は経っていない。それなのに、胸の奥には、ひとつの夜を越えたあとのような静けさが残っていた。 朱里は、すべてを語ったわけではなかった。 迷っていることも、不安も、言葉にした。 でも──決定的な一言だけは、最後まで口にしなかった。 「……言わなかった、んだな」 歩き出しながら、嵩は独り言のように呟く。 それが何だったのか、具体的にはわからない。それでも、あれは“言えなかった”のではなく、“選んで言わなかった”のだと、なぜかはっきり感じていた。 帰り道、朱里の声が何度も思い出される。 「まだ、自分の言葉じゃない気がして」 「決めたら、それは逃げじゃなくなるから」 彼女は、自分の弱さを差し出した。 でも、嵩に寄りかかる形ではなかった。 答えを預けることもしなかった。 それが、少しだけ寂しくて──同時に、ひどく誇らしかった。 嵩は立ち止まり、夜空を見上げる。 もし、朱里があのとき「一緒にいてほしい」と言っていたら、自分は迷わず頷いただろう。 もし、「離れるかもしれない」と言われていたら、引き留める言葉を探しただろう。 けれど、朱里はどちらも言わなかった。
朱里の言葉が終わったあと、風の音だけが二人の間を通り抜けた。 駅前の喧騒は相変わらずなのに、ここだけ時間が一拍遅れているようだった。 嵩は、すぐに何かを言わなかった。 それが朱里には、ありがたかった。 問い返されるのも、掘り下げられるのも、今は違う。 ただ受け取ってほしかった。 「……怖かった?」 不意に、嵩がそう言った。 責める響きでも、探る声音でもない。 事実をそっと置くみたいな、静かな問い。 朱里は少し考えてから、頷いた。 「うん。今も」 それだけでいい。 付け足さなくても、否定しなくても。 嵩は小さく笑った。 「それ、言ってくれてよかった」 「……え?」 「好きだって言われるより、今はそっちのほうが、ちゃんと届いた」 朱里は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。 言わなかった言葉まで、見透かされたようで。 でも、不思議と嫌じゃなかった。
駅前のベンチに座り、朱里はスマートフォンを伏せた。 嵩に会うまで、まだ二十分ある。 けれど、時間が余っているから落ち着けるわけじゃない。 むしろ、考える時間が増えたぶん、頭の中は騒がしくなっていた。 ──何を、どこまで話す? 昨夜、ノートに書き出した言葉たちが脳裏に浮かぶ。 寂しかったこと 置いていかれる気がしたこと 「大嫌い」と言えば、距離を保てると思っていたこと 全部、真実だった。 全部、重すぎる気もした。 朱里は息を吐く。 「全部言う必要は、ない」 誰に言うでもなく、そう呟いた。 嵩に分かってほしい気持ちはある。 でも、分からせたいわけじゃない。 ──選ぶんだ。 ──今の私が、背負える分だけ。 朱里は立ち上がり、歩き出す。 足取りは軽くないけれど、止まらなかった。 角を曲がった先で、嵩の姿が見えた。 少し早めに来たのか、壁にもたれて空を見ている。 その横顔は、以前よりもどこか疲れて見えた。 朱里の胸が、きゅっと縮む。 (ほら、また)
店の看板に灯りが入ったのは、約束の時刻より少し前だった。 朱里はそれを見上げて、一度だけ深く息を吸う。 ──逃げない。 ──取り繕わない。 ──でも、全部は言わなくていい。 第179話で絞り込んだ「話す内容」が、胸の奥で静かに整列している。 言葉はまだ完全な文章になっていないが、順番だけは決まっていた。 扉を押すと、鈴の音が小さく鳴る。 嵩は、すでに来ていた。 窓際の席。背中を少し丸めて、手元のカップを両手で包むようにしている。 視線が合った瞬間、どちらも声を出さなかった。 立ち上がることも、手を振ることもない。 ただ、同じ場所にいるという事実だけが、ゆっくりと二人の間に降りてくる。 朱里は一歩、また一歩と近づく。 嵩はその足音に合わせるように、ほんの少し姿勢を正した。 「……久しぶり」 先に口を開いたのは朱里だった。 思っていたより、声は落ち着いていた。 「うん。久しぶり」 嵩の返事も、短い。 けれど、その一言に余計な温度はなかった。 それが、今の朱里にはありがたかった。 二人は向かい合って座る。
その日、嵩は定時より少し早く会社を出た。早く着きたいわけじゃない。遅れたくなかった。(待たせる側には、なりたくない)駅前の喫茶店。昨日と同じ場所、同じ窓際。店員に案内され、席に着く。コーヒーを頼み、スマホを伏せる。朱里に連絡はしなかった。(急かすことになる)待つ、と決めたのは自分だ。時計を見る。まだ、十分以上ある。(……落ち着け)背もたれに体を預け、深く息を吸う。転勤。答え。選択。朱里の顔が浮かぶたび、その全部が一つに結びついて、胸が詰まる。(正直に言えばいい) (でも、正直って何だ)行く。行かない。それだけの話じゃない。(俺は、どうしたい?)しばらく考えて、苦笑する。(……まだ、決めきれてない)それでも、今日話すことは決まっている。隠さない。濁さない。逃げない。美鈴の言葉が、ふいに浮かぶ。“待つなら、ち